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酒屋で働く者にとって一度は見る夢、それは杜氏になることではなかろうか。
もともと農閑期を利用した唯一の現金収入の場であった酒蔵ー。今は農業の構造改善、また副業との組み合わせもできるようになり、酒蔵に出稼ぎする人は激減した。
秋になって収穫が終ると、蔵人たちは杜氏宅に集まり、就業前の腹合せ(祈願祭)、春になって村に帰ってくると仕舞祝い(完醸祭)をする。
少年の日の私の目に、それらの光景は憧れであった。
特にそのグループの長、杜氏の毅然たる風貌は潜在意識となって、いつも私の内にあったように思う。
中学を卒業した年の秋から唐津の酒蔵に出るようになった。
杜氏は厳格な人で他人は務まらず、グループは親戚の者で構成されていた。私は姉婿が従兄弟ということで縁があった。
午前三時起床、夕刻七時には一応終業となるものの、各職務には責任があるので夜中にもたびたび起こされる。
人はその蔵のことを新参訓練所、日本一機械の無い所などと呼んでいた。
「ここで辛抱できた者はどこへ行っても務まるから」と義兄に励まされて頑張った。
0.1度の温度差もゆるがせにしない温度管理、1ミリ単位の採尺、熱湯消毒、過酸化水素消毒は口癖だった。
杜氏があまりに厳しいので「こんなにまでしなくても酒は出来る」などと不満をぶちまける者もいたが、私には何か惹きつけられるものがあった。
それは杜氏の異様ともいうべき酒造りに対する熱意であった。
そんな上司だったから十年目に倒れ、親戚の者で協議した結果、私を後継者に推薦した。
「酒は俺たちが造る。お前は帳面だけをやればいいから杜氏になれ。そうすれば蔵人もばらばらにならずに済む」と義兄は私を説得した。
それは私が二十五歳の春、佐賀北高校の通信制に入学した年だった。
「杜氏と通信教育は両立できない。私には学問の方が大事だ」と思った。
当然の如く、苦楽を共にした仲間はばらばらになったが、私は職場を転々とするのは美徳ではないという観念から、社長や後任杜氏に頼んで止まった。
ところが、後任杜氏は全く対照的な人柄で愕然とした。
無気力な惰性だけで酒造りをつづける毎日は、単に給料をいただくためだけの一日として終るような気がするし、そんなことでは働く喜びも生き甲斐もないように思われ、悶々と過ごした四年間、計十四年私を育てた酒蔵に別れを告げた。
返り際に某製麹メーカーより発行された小冊子を記念に持ち帰った。
次に有田の酒蔵に移り、念願の麹師になった。
今までに麹師になれる機会を二度も失っていた私は、唐津の酒蔵から持ってきた小冊子を読んでいくうちに、その本の中に自分の姿を見る思いがした。
十年近く誰からも読まれることなく書架に眠っていた『新しい麹造り』という本を読んで、私は業界の発展に寄与する蔵男としての使命感を覚え、東北での修業を決めた。
私は自分の人生を見い出したその瞬間を大切にしている。
メーカーの製麹理論に読み惚れながら、宮城県内の銘醸蔵を知った。
その蔵は過去に十年連続日本一になり、吟醸造り日本一の折り紙を付けられた平野佐五郎という杜氏の蔵だ。
私は九州では身に付けることのできない技術と勘を名人・平野佐五郎のもとで磨きたいと考えた。
佐賀県で最も小さな潰れかけたような酒蔵の麹室の中で夢は大きく膨らんだ。
上司から「自分は辞めるから来年からお前が造らないか」。
社長は「醸造学校へ行く気はないか、その気があれば学資は持つ」と言われたが、耳に入らなかった。
今ここで杜氏になっても一生暗中模索で終るだろう。
それに私はそんなに若くない。
学校で知識を得ることも大事だが、実際に良いものが出来ているところに行って、この目で見て、この手で触り、体で覚えることの方が早道だ。
酒造りは一に経験、二に知識、三に思考力ではなかろうか。
二十五歳にして学問に志す。
走り続けた十五年間。
ともすれば怠惰になりがちな自分を「必ずこれがものを言う時が来る」と叱咤した。
“日輪”“森の露”“舞”という銘柄があって、人は「火の車」「露と消える」「甘い」と嘲笑していたが、寒冷で清澄な気候風土、そして何よりも大切な水が素晴らしく、将来性を見出していた。
“森の露”という銘柄は、如何にも日本酒の代名詞といった響きがある。
「ここでならやれる。よし!日本一になってやる。それが出来るまでは佐賀には帰らない。必ず自信をつけて地元に帰り世界を目指すのだ」自分の人生を賭けた一つの決意を固め、家督を弟に譲り、皆の反対を押し切り、日本酒の理想を佐浦に求めて故郷を後にした。
北高通信制を卒業、家出と続き、大学の通信教育部にも入学した。
ところが学問の道は厳しく、とても私の頭脳ではこなせない。
外国語八単位は一年やって一つも取得できなかった。
私は再度高校の課程(修猷館通信制)に入学、そして昨春卒業した。

母の面影を胸に酒造りにいそしむ
私の母は貧農の次女に生まれ、家督を継ぎ五人の子供を育てた。
他の四人はそれぞれに家庭を持ち両親を安心させたが、何故か私一人が 「親孝行をしたい 」という気持ちとは裏腹に苦労をかけていた。
また後年には、夫にも病まれ(中風)母は一人で働かねばならなかった。
畑を耕し、作物を作るのが生き甲斐で野菜とも話ができる人だったから、私が居ない間は鍬で耕し麦を播いていたそうだ。
家を出てから、この四年間に届いた母の手紙は三十四通。
その最後の手紙には 「早く帰って来て下さい。私も去年までは田植えもしたけど、近頃は頭がぼうっとして体もきつい。今年は田植えも出来るかどうか・・・」
私は「帰る」と返事はしたものの、どうして帰ったらよいのか、金も体裁も全くない私は弱ってしまった。
折も折、六十年二月、私は後任ではあったが杜氏として赴任することになった。
そして頂いた給料をそのまま両親に送金した。「私にもいろいろな事がありましたが、夢は着実に叶えられそうです。ここにお送りする金は、私が杜氏になって最初に頂いた金です。三十歳そこそこの若造が月給五十万も貰う企業が他にあるでしょうか」
後任としての酒造りも無事に終わり、私は家に帰って五年振りに母と田植えをした。
母は大変喜んでくれたが、その二日後に急性心不全で他界してしまった。
苦労すること、辛抱すること、それは戦中戦後を駆け抜けた大正女(七十二歳)の運命でもあるが、それを当然と受け止めた母の一生を思うと、私は九回の裏ツウアウト満塁、ここで“逆転満塁ホームラン!”という場面を、見逃しの三振で終ったような気持ちだ。
元気でいてくれたなら、あれもしてこれもしてと思わぬ日はない・・・。
第二次近代化五ヶ年計画がスタートして、国税庁の転廃業勧告やら、業界は大変厳しい時代に突入している。
しかし私には全く不安はない。
酒類の中で日本酒ほど旨いものはないし、吟醸酒のそれは、世界一の銘酒ブランデーの芳香に優るとも劣らないからである。
日本酒を世界のトップに立てることが、私の使命であり生き甲斐である。
人の話によれば、今年全国で四百軒の酒屋が廃業するそうだ。
杜氏も百五十人余るという。
かような時期に、私は幸運にも杜氏として銘醸地・広島の酒蔵に赴任できた。
「稼ぐ人も世話するから、今後の身の振りは任せて」と上司は言った。
こんなバカの私にそう言ってくださるのは身に沁みて嬉しい。
そうして私は、南杜の客員杜氏として五年目の酒造りに入った。
南部の価値観だけでは無しに、純朴で誠実、そして辛抱強い県民性が好きだ。
私にできることで南部のお役に立てることがあれば何でもしたい。
さて私は100%主義者であろうか。
また権威主義的性格であろうか。
私が今までにやってきたことは、所詮、独断と偏見であり俗に言う“若気のあやまち”かも知れない。
信念を持って頑張ってはいるが、いつも何か釈然としないものがある。
癒されない空洞のようなもの。
それは多分、故郷に一人残した年老いた中風の父の安否。
婚期が遅れたこと。
学問はどうするか。
そして世間を騒がせてまで(家出をしたこと)成そうとする夢が、果たして叶うのかといった不安が一つになって、頭上に重くのしかかっているからだと思う。
しかし“解決できない試練はない”というのは真理であろう。
苦難は希望に替えて、たとえ何があっても己の目標だけは見失ってはいけないと自分に言い聞かせている。
昔、神は二物を造らずであったが、今の神様は二物を造るそうである。
私は単純な人間だからとても二物にはなれそうもない。
せめて『一隅を照らす』(傳教大師)ことが、そのまま『万法に証せらる』(道元禅師)ことになる道、つまり酒を造り続けることだと信じるしかない。
杜氏は管理者として、従業員を指揮監督し企業の生産性を向上させる責任がある。そのための心得として、
1、管理者としての自覚を持つこと。
2、人間関係を良くすること。
3、従業員の教育に努めること。
4、従業員の労働の安全、衛生その他の福祉問題について留意すること。
5、労務の合理化を図ること。
6、常に問題を持ち、その解決に努めること。
7、管理点を明確にすること。
8、旺盛な実行力を持つこと。
そして最後は最終責任をとらなければならない。
100%主義は必ず行き詰るであろう。
これからは自分にも蔵人にもその限界を認め、それを優しく許すという心のゆとりを勉強していきたい。
一隅を照らそうとする者は、どうしても他の多くの場面を放棄しなければならない。
そのことへの取り返しのつかなさ。その思いは自分で選んだ道であるけれども私に苦しみを与える。
また、一隅を照らすことが、そのまま万法に証せらる道であることは、言葉では容易に云い得ても、それを人生の軌跡として身をもって画き切ることは容易ではないはず。
『努力する者は常に迷う』(ゲーテ)だが、この人生を味わい楽しむことも大切である。
明治の日本を動かした我が葉隠れの魂。
あの先駆者たちの自分に鞭打つ厳しく強い根性が私に少しでもあって欲しい。
己の道を突進する若さのエネルギー。
自分の信ずる道を私は胸を張って生きていきたい。
〈昭和61年、南部杜氏組合機関紙第77号『南部杜氏』に投稿〉
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